82 きつねの恩返し 狐の恩返し

82 きつねの恩返し 狐の恩返し

 貯水池になってしまった村に宅部という所がありました。今は、下貯水池の第二取水塔のあたりに原さんの家がありました。

 当時はきつねやたぬきなど、この山にはたくさんいたので、きつねとりという商売の人がいました。 山ふところにあった原さんの家に親子のきつねが遊びにくるようになりました。冬の寒い日にはいろり端にきてあたっていくほどになりました。だんだん可愛くなった家の者はきつねとりに撃たれないかと心配していました。

 ある雪の日、いつものように、いろり端に座っているきつねをみたおばあさんは、「きつねとりがくるからいいかげんで身を引いておくれ」と頼みました。きつねはわかったのか雪の中を親子で出ていってしまいました。それきり姿は見せませんでした。

 山里の部落に大火事がありました。上の方から出た火で三光院も焼けてしまったのですが、幸にも原さんの家は焼けずに残りました。おばあさんは「これはきっときつねが守っぞれたのだ。きつねのおかげじゃ」と言って喜びました。

 この話は、原さんが小さい頃おばあさんから伝え聞いた話なのですが、貯水池から清水に移転した時、いろりのあったところにきつねの大きな穴があったそうです。今でも家の裏に稲荷様を祀っておられます。

 芋窪の砂の川(現空堀川)のところを珍らしくきつねがケンケン啼きながら通って行った。それを見た年寄は何かケカチ(変った事災)があると言って、心配していたら、中砂橋の橋桁が折れていた。きつねが喘いて知らせてくれたのだと人々は言ってきつねに感謝したそうです。
(p179~180)
弘化3年(1846)
2月2日、大風、宅部の杉本失火、類焼三軒 (指田日記 狭山之栞)
西楽庵地蔵堂焼失



茨城県龍ケ崎市
ちょっと悲しい昔話「キツネの恩返し」。
全国的に知られる有名なこのお話は、実は龍ケ崎市にある女化神社(おなばけじんじゃ)に伝わるお話です。
女化神社では、あちこちに狐の姿を見ることができます。

ある日、忠七(ちゅうしち)という農夫が、狩人(かりうど)に狙われていた白狐をみて気の毒に思い、咳(せき)払いをして助けてやります。
狩人には手持ちの金を渡して許してもらい、家に帰りました。
その晩、50歳くらいの男と20歳くらいの女が「一晩の宿を貸してください」と訪ねてきました。
忠七親子はふびんに思い泊めてあげます。
翌朝、女は泣きながら「私は奥州岩城郡(おうしゅういわきぐん)の者で、鎌倉の叔父(おじ)を訪ねるのに家来とともにここまで来ましたが、夕べ寝ている間にその家来がお金を持って逃げてしまいました。しばらくここにおいてくれませんか」と言います。
優しい忠七親子が家においてあげると、女は田畑の仕事や針仕事など何でも良くやり、とてもきれいな娘でもあったので、忠七親子はたいへん気に入り、結婚することになりました。
やがて8年の歳月が過ぎ、2人は7歳のお鶴を筆頭に5歳の亀松、3歳の竹松の3人の子に囲まれて暮らしていましたが、母となった女は実はかつて忠七が助けた狐。
ある日子どもを昼寝させているときに自分もウトウトして、ついうっかりしっぽを出してしまったのです。
子どもにしっぽを見られてしまった女は、この家を出ることを決意しました。
かわいいわが子と別れるつらさ、その気持ちをうたった「みどり子の母はと問はば女化の原に泣く泣く伏すと答へよ」の歌が残されています。
女は末っ子の竹松の帯にその歌を書いた紙を結びつけて、根本が原に帰りました。
寂しくて仕方がない子どもたちと忠七。
戻ってきてほしい、せめて顔を見せてほしいと何度も根本が原を訪れ、女は一度だけ巣穴から顔をのぞかせましたが、すぐに奥へ入ってしまいました。
女の決意の固さを知った家族はあきらめて家に帰り暮らしましたが、子どもたちはそれぞれ立身出世して、立派に生きたそうです。
この伝説から、根本が原は「女化の原」と言われるようになりました。

兵庫県篠山市

昔、泉村の八幡さんの境内に竜泉寺というお寺があった。
 寺の裏側には、古くから尾の先が白い一匹の狐が住んでいた。
 別に悪いこともしないので、村の人たちはお参りするたびに、油揚げや小豆ご飯を施すことにしていた。
 ある年、そのお寺が焼けて、建て直しをどうしたものかと困っていた時のこと。
 ちょうどそのころ、小枕村では、お寺を立て替えて、たくさんの古い材木の置き場に困っていた。
 ある日、泉村の又左衛門という人が小枕村にやって来て、「お寺が焼けて困っています。どうかこの古材木を売って下さい」と申し出た。
 小枕村では処分に困っている時だったので、早速話がまとまり、又左衛門はその場で銀二匁を支払って急いで帰っていった。
 ところが、10日たっても一カ月たっても材木を取りに来ないので、小枕村では催促の遣いを泉村にやった。
 驚いたのは泉村の方。それもそのはずで、だれ一人材木を買いに行ったものはない。
 しかし、もう代金が支払ってあるというので、相談のうえ、村人が総出で小枕村の古材木を運んで帰り、不思議なことだと思いながらお寺を建てた。
 それが昭和7(1932)年に改築するまでの建物である。
 そして、だれ言うともなくあれは狐の御恩返しに違いないと、今も村人の間で信じられている。
 なお、このほか狐にまつわる話として、郡内には峠の狐(旧城東町)、三つ池の狐(同)などが残っている。


山形県民話
むかしむかし、ある村に、人をだます事が上手なキツネが住み着きました。
 キツネは夜になると娘に化けて酒に酔った人のみやげをぬすんだり、風呂に入れると言って川や沼に人を入れたりしておもしろがっていたのです。

 ある夜の事、キツネが娘に化けて村はずれで待っていると、次助(じすけ)じいさんが通りかかりました。
 キツネは道ばたにうずくまって、
「次助じいさん。わたし、お腹が痛くて歩けないの。どうか村まで、背負って下さいな」
と、頼んだのです。
 ところがこの次助じいさん、なかなかのやり手で、
「これはこれは、こんな美人の娘を背負えるのは、なんともありがたいこっちゃ」
と、キツネの娘をひもでしっかりと背中にしばり、歩き始めたのです。
 村の入口まで来ると、キツネの娘は、
「もう、お腹は治りました。ここからは一人で歩けますので、おろしてください」
と、頼みましたが、次助じいさんは聞こえないふりをして、村の者が集まっている場所まで背負い、
「キツネを捕まえたぞ! みんなでしばりあげろ!」
と言って、村人みんなでキツネをしばりあげると、枯れ草を燃やした煙でキツネをいぶりたてました。
 キツネの娘は苦しくて、とうとうキツネの正体を現してしまったのです。
「さて、このキツネをどうしてくれようか?」
「イタズラギツネだ。逃がすわけにはいかないな」
 村人たちは相談して、このイタズラギツネをキツネ汁にして食べてしまおうという事になりました。
 すると、今までだまって見ていた善作(ぜんさく)じいさんが、
「なあ、殺すのはかわいそうだから、どうか放してやってくれないか」
と、みんなに頼み込んだので、キツネをそのまま逃がしてやる事にしました。

 それからキツネは、イタズラを一切やめました。
 そしてキツネの恩返しなのか、それから善作じいさんには良い事ばかりが続いて、とうとう村一番の長者になったという事です。